石橋文雄氏『闘病記』

 当社の看護師の義父、石橋文雄氏が昨年12月に胃癌の診断を受け入院手術。
私共も大変心配しておりましたが、うれしいことに予想以上に早い回復で、この度『闘病記』を寄せて下さいました。
軽快な文章が素晴らしい『闘病記』ですので広くご紹介したいと思いました。
ご無理にお願いしてご了承を頂きましたので、ここにご紹介させて頂きます。

 石橋文雄氏は本年80歳。教員としてエリートコースを進み、文部省からの要請でチリの日本人学校長のあと、ドイツブレーメンの国際日本学園校長に赴任されたこともある。

現在

  • 神奈川県国際理解研究会顧問
  • 大和市退職校長会会長
  • 神奈川県連合退職校長会副会長

BS『胃癌と向きあう』 石橋文雄 記  2010年2月

プロローグ

 ブリジストン石橋の英語読み。ドイツ語ではシュタインブリュック。頭文字は共にBS、それで表題をBS『胃癌と向きあう』とした。
近時、これほど発達した医療技術のなかでも、3人に1人は癌で死ぬ時代に突入したといわれている。そしていまだ”癌”の原因は解らないという。
たばこを吸っていた患者の罹患率が高いことは統計で示す数値だが、80歳台後半で元気なヘビースモーカーもいる。
BSは、たばこは若い頃から1回も吸ったことはない。映画では必ずのようにかっこ良くたばこを吸う場面が出てくる。自分も真似したいと思ったこともあったが、所詮映画の世界と、自分は別とした。
また次の理由でたばこを吸わなかったこともある。BSの父親はヘビースモーカーだった。父親の書棚には書籍のほかに瓶が幾つも並んでいてパイプに詰める刻みタバコに、いろいろな香料をブレンドしたものを自慢のパイプに詰めて吸っていた。そんな父親が太平洋戦争末期から戦後にかけて、煙草を買うのに大変な苦労をしていたのを見ていたからだった。
酒は大学に入って初めて飲んだ。終戦後は食糧難時代で価値の低い材料から高価値の食品を作り出す農芸化学科に人気が集まった。BSはその応用微生物専攻(現筑波大)に入った。コンパは どぶろく だった。にごり酒つくりはお手の物で教授に内緒で実験室で作った。酒造は法に触れるので密売まではしなかったが、甘酒、水飴、ヨーグルトなどを作って近所の家庭に売り歩いた。
貧乏学生の集まりだったのでその資金で個人持ちの白衣や実験用具を買ったり、研修費にあてたり、果ては卒業謝恩会も食品の売上げ金でまかなった。入学時の学友は20名で卒業時19名、教授陣に比べて少人数の充実した学生時代だった。

大和徳州会病院

 BSは、若者に負けず毎年冬が来るのを楽しみに上信越、猪苗代、蔵王などスキーに出かける。そのほか趣味ではコーラス、ハーモニカのグループに入り、定年後の余暇を楽しんでいる。体力測定では60歳台相当で健康そのもの。医者のお世話にならず”癌”は私を避けていると過信していた。
2009年11月20日(金)BSはコーラスの練習を終えて自宅に戻り録音テープを回しているうち、キリキリと腹に痛みを感じた。三共胃腸薬を飲んだが痛みは増すばかり。金曜日は娘が休日で家にいることを思い出し、妻に付き添ってもらい娘の運転で大和徳州会病院に行った。19時を過ぎていた。
大和徳州会病院は4年前、北海道の糠平スキー場の急斜面でスピードの出しすぎから転倒しアイスバーンに激突、頭部を強打脳震盪。帰宅して数日後体調がおかしいので診てもらったのが大和徳州会病院。病名は頭部硬膜下血腫、外科手術2週間治療で完治したことがある信頼できる医療機関だった。
外来外科の高橋先生の所見では精密検査をする必要がある。とりあえず痛み止めの薬を出しておくが、外来患者の検査手術が詰まっているので1週間後の11月27日また来院するように、とのこと。
11月27日(金)血液検査・心電図・バリウムの胃検査・胃内視鏡検査・CT検査・超音波検査をする。検査結果は12月4日(金)。

 12月4日(金)この日も妻の付き添いで徳州会病院に出かけた。投影板に黒白レントゲンフィルムを並べた。高橋先生は、ここが「癌」です。このまま放置すると死にますよ。ご家族はどのような構成ですかと質問された。BSはこの先長くない生命 死を予告するような先生の言葉、まさかこの私が「癌」だなんてとても信じられない。良く使われる言葉だが『頭が真っ白』になった。入院日は12月13日、手術は15日、年末に退院など今後の日程説明があったが全く耳に入っていなかった。

翌12月5日(土)徳州会病院にて大腸がん内視鏡検査による、ポリープ切除の手術を受ける。手術前の検査は、血液検査・心電図・超音波・肺活量肺機能検査・大腸内視鏡検査など。大腸内視鏡検査は肛門からチューブを挿入する。局部麻酔をしたが痛い。検査技師に肛門をむけての横臥姿勢、目の前のTV画面に大腸カメラの映像が目に入ってくる。ヌルヌルとカメラが動いていき盲腸あたりまで届いた頃だろうか『痛い、ああっ痛い、痛い、止めてくれ、止めてくれ』と悲鳴をあげた。検査技師の『止めましょう、高橋先生を呼んで来ましょう』の声が耳に入った。

 高橋先生には盲腸手術のとき腹膜炎を併発して腸壁が癒着しているかもしれないと言って置いたのが内視鏡技師に伝わっていなかったらしい。高橋先生が来て全身麻酔が指示され、それからの記憶は無い。大腸ポリープを3か所切除し個室で静養。翌12月6日自宅に戻った。
12月6日(日)夕刻。息子と嫁が我が家に見舞いに来る。徳州会病院でのこれまでの経緯と「癌手術」の予定を話すと、県立がんセンターで手術を受けた方がいろいろの面で良いのではないかと言う。
12月11日(金)大和徳州会病院へ。息子、嫁の助言に従い、高橋先生に県立がんセンターで治療したいので紹介状を書いてほしいと申し出たところ、高橋先生は『息子さんの嫁さんから手紙が来たこと、嫁さんは元、県立がんセンターの看護婦をしていたのでセンターの様子をよく分かっている。また家からも近いので父の手術は県立がんセンターで受けさせたいと書いてありました。ここにもう紹介状を用意してあります。X線などのフィルムも貸し出しますのでお持ち下さい』と快く対応して下さった。

県立がんセンター そのI

 12月15日(火)妻の付き添いで県立がんセンターへ。
外来内科の中山先生は、大和徳州会病院から送られてきた資料を見て「癌ですね。大和徳州会病院で13日入院、15日オペの予定だったと書いている。そこで手術にかかっておけば良かったのに。早く治療しないと手遅れになりますよ」中山先生はコンピューターに向き合い外科医の手術日を組み立ててくれた。
 BSは「県立がんセンターで手術する場合、徳州会病院でやったX線検査とか、その他の色々な検査をもう一度やるのですか?」とお聞きした。中山先生は「こちらとしては資料として必要ですからやりますよ」との答え。現今の医学界は医療ミスで損害賠償など法律で縛られる事例が多く、その備えとしての事前検査がやたらに多い。徳州会病院で「癌」と告知されて早速買った本は『癌では死なない』
その内容は、人にはもともと病原体に対する抗体があり健全な身体でありさえすれば侵入してきたウイルスにも心配することはない。腸内をきれいにすれば癌は消える。それより怖いのは医療機関での医療ミス、高濃度なX線照射などなど書かれていた。

 県立がんセンターで手術を受けるつもりで来たBSは、またバリウム胃の検査・CT検査などなど、多量のX線照射の面影が脳裏をかすめた。それならデーターの揃っている徳州会病院で手術を受けようと気持ちは変わった。いや待てよ『癌では死なない』と本に書いてあった。このままにして手術を受けず養生していれば〝癌〟はこれ以上進行しないのではないかなどと心は揺れに揺れた。
中山先生に、県立がんセンターに入院しないと申し出た。中山先生はBSの気変わりに「どうしたんですか?手術を受けるためにここに来たのではないですか?」と。妻と娘は、県立がんセンターに入院させたい気持ちで話を進めている。
中山先生は「患者さんとご家族の意見がまちまちでは困るんですよ。どっちなんですか?」BSは「患者や家族が迷っているとき助言するのも医師の責務でしょう」と腹立たしげに言う。
中山先生は「それではセカンドオピニオンという制度があります。13時に来て下さい。なにしろ手術待ちの患者が沢山この後も待っているものですから、いいですね」と念をおされた。
セカンドオピニオンの診断結果は、癌細胞は胃の幽門部粘膜下層を浸潤して筋肉層に及んでいる。病気進行度は1・2・3・4・5のうち3bと判定された。bが付け加えられたのはリンパ節から他の部位に癌細胞が転移しているかもしれない、その恐れありとのこと。

セカンドオピニオン

 患者が持つ権利の中に、セカンドオピニオンがあることは県立がんセンターに行って初めて知った。
県立がんセンターの受付窓口上壁面に病院の基本理念とセカンドオピニオンが大きく掲げられているのが目に入る。

<患者さんの権利>

  1. 誰でも平等に良質な医療を受ける権利があります。
  2. いかなる場合でも、人格を尊重され、尊厳を保障される権利があります。
  3. 病気や検査・治療についてわかりやすく説明を受ける権利があります。
  4. 検査・治療について、自分の意思で選択する権利があります。
  5. 他の医療機関の医師の意見(セカンドオピニオン)を求める権利があります。
  6. 7.省略

再び大和徳州会病院

 妻は県立がんセンターで治療したほうが良いと前々から思っていた。BSが大和徳州会病院に入院するということを息子に電話したところ、息子は嫁と相談。やはり県立がんセンターで処置した方がいい、明日会社の休暇をとるから早速に県立がんセンターに行ってお願いしようとBSを説得。迷いに迷っていたBSは家族の説得で、県立がんセンターで手術をすることを決断した。
12月16日(水)息子の車で嫁、妻付き添いで県立がんセンターに行く。中山先生に再度のお願いをしたところ、「やはりそうでしょう。早く手術しなければ大変だと言ったのに」と。それでは入・退院の予定を組んでみましょうとコンピューターに向かい、1月14日入院、18日手術、27〜28日ごろ退院と組まれた。
ついては大和徳州会病院からの紹介状が必要と言う。前回紹介状を出してあるので「またかよ!!」と怒りがこみ上げてきたが、しかしここは我慢、我慢と気を静めた。直ぐに大和徳州会病院に行き紹介状をお願いすべく電話をしたが、高橋先生の外科外来は金曜日のみとのことで12月18日にした。
12月18日(金)大和徳州会病院へ。高橋先生にこれまでの経緯を説明して、再度の紹介状をお願いする。高橋先生は快く書いてくれた。

県立がんセンター そのII

 1月14日(木)県立がんセンターB棟7階205号室4人部屋に入る。南面の大きな窓から全山白雪の富士山が目に入る。窓下に中尾小学校の児童たちが元気に遊びまわる姿が見える。病室は徳州会病院での8人部屋の広さで、ここは4人の患者。ゆったりして気分は大変宜しい。しかも、7階エレベーターを降りてナースセンターのすぐそば、トイレにも近い。今日から病院食で順次、胃の中をきれいにしていくらしい。午後は麻酔医のカウンセリングを聞く。
1月15日(金)消化器外科医主治医の諸検査の所見、手術の方法について説明の日。
長先生、年齢は40歳台後半。すべてを任せられそうな頼りがいのある医師だ。やはり胃がんと判定された。癌細胞は他の部位に転移はしていない模様。しかし開腹してみないと判定できない。手術の方法は腹くう鏡補助下胃切除術によるか、または従来の開腹手術によるかの選択を迫られた。腹くう鏡補助下胃切除手術は、まだ技術の歴史が浅く、まだ臨床実験の段階と言う。安全の保証はないが患者にとって傷口が小さい、回復が早いなどメリットが多い手法だそうだ。ことここに至ってはまな板の上の鯉。臨床試験で手術をする同意書に署名した。

 1月16日(土)起床6時、朝食7時、昼食12時、夕食18時、消灯21時30分。食事は3分粥で量は茶碗に3分の1程度。副食も消化の良いもので極く僅か。手術前、胃に残留消化物があるといけないらしい。
1月17日(日)手術前日。この日は朝食から絶食。水、お茶も飲んでは駄目で、OS-1という薬剤入りのドリンクを1500ml(3本)飲むよう厳守される。10時下剤を飲む。入浴後、看護師による爪切り、おへその穴掃除、へそ下の除毛(専用のクリッパー)には閉口した。
1月18日(月)手術当日。妻、息子、娘が早朝より来院してくれた。手術は9時開始。手術1時間前に弾性ストッキングを履く。足先に血流塊の停滞を防ぐことかららしい。旧制中学生のころゲートルを固く巻きつけた感覚。血栓予防薬注射、抗生物質点滴、痛み止めカテーテルを背中に注射。背中をえび状に曲げて脊椎骨の間に注射針を刺す。これが最高に痛い。これから数日は寝たきりでトイレに行けないので尿管を接続する。鼻には酸素マスクと身体の周りは管だらけ。いよいよこれから手術。長先生が全身麻酔の指示をする。意識がだんだん薄れて行く。
後から聞いた話だが、付き添いの家族には手術前に院内連絡電話(PHS)が手渡され、手術中もしやの事故や手術後の無事終了の連絡に利用されるとのこと。BSの家族には13時に手術は成功裏に終了したと連絡が入った。長先生が家族を呼び寄せ、胃の3分の2 幽門部分を切除したそのものを解剖皿に入れて確認を求めたらしい。BSは全くの昏睡のまま集中治癒室(ICU)に運ばれ、このことは知らない。どのくらい眠っていたのだろうか、痛さで目が覚めた。痛い、痛い、腹部が重い鉄板で押さえつけられたような激痛。薄暗いICUの部屋でうめき声を上げる。ナースコールで男性看護師が来て痛み止めの注射をしてくれた。時間を聞くと19日(火)夜中の1時とのこと。
集中治癒室で1日過ごし、翌1月20日(水)9時、病室の705号室に戻る。酸素マスク、背中に痛み止めのカテーテル、腕に抗生物質の点滴、尿をとる排泄尿管などが繋がれたまま。うとうと眠っては、すぐまた手術後の腹部傷の痛みで目が覚める。
午後、コーラスの友達が見舞いにみえた。BSは激痛の最中だった。看護師にあれこれ処置をしてもらっていた最中で、鹿志村さん、小林さん、漆原さん達とお会いすることができなかった。

 1月21日(木)酸素マスク、背中の痛み止めカテーテルが外される。下腹部が膨らんできて痛い。尿の出方を毎回計量しているがこのところ出ない。長先生の回診で前立腺が邪魔しているのではないか、レントゲンを撮ってみましょうとレントゲン室に運ばれた。結果は前立腺肥大でハルナールD-0.2mgが処方された。午後、スキー仲間の洲崎さん、菊名の和雄兄が見舞いにみえた。
1月22日(金)抗生物質の点滴は終わり注射針からは栄養剤250ml注入、尿管はまだ繋がれている。昼食から3分粥が出るようになった。しかし、お碗に3分の1程度。しかも、食べて良いのはその半分。残すようにと指示されていた。断食同然の生活だったので目が卑しい。全量食べてしまった。それからが大変。胃から食道にかけて下から突き上げるような猛烈な痛み、動悸、めまいが襲ってきた。ダンピング症状とのこと。以後、食事は指示通りにと悟った。卓二さん、留美子さんが見舞いにみえた。
1月23日(土)食前に看護師さんが身体を拭いてくれる。お腹の傷跡絆創膏が剥がれないかと心配。しかし、慣れているので手際良い。昼食から3分粥の全量を食べて良いとの指示。それでも、お碗に入っている量は3分の1程度。鈴木さん、堀切さん、辻村さんがお見舞いにみえた。

 1月24日(日)やっと尿管が外され自分でトイレに行けるようになった。食事は5分粥になった。しかし、食べて良い量はお椀の3分の1入っている量の半分。ようやく元気が出てきた。点滴の支持金具を引きずって病院内をゆっくり歩く。自由に閲覧して良い図書が沢山あり、また、ピアノのロビーコンサートなど用意され入院患者を癒してくれる。

 1月25日(月)手術後の経過を最終判定するための血液検査、胸部腹部X線検査がある。朝食後、久しぶりに自力でシャワーを使った。湯ぶねの中で恐る恐る背中から湯を流した。気持ちが良い。食事は5分粥の全量を食べて良いことになった。菊名の和雄兄と義弘さんがお見舞いに来た。
1月26日(火)昨日の検査結果、総合判断が13時、長先生から。結果はすべてが順調に推移した。手術も成功、退院は1月28日(木)とのこと。嬉しい。さあ、これからは自分の足で歩き、行きたい処に行かれる。好きな物、美味しいものが自由に選べる。食べて排泄して自由とはなんて素晴らしいものか、希望で胸が膨らんできた。スキー仲間の石川さんがお見舞いに来てくれた。

 1月27日(水)病室の東方向窓から朝日が昇る。鶴ヶ峰のタワ―マンションにそって上がる太陽が眩しい。腕を回してラジオ体操をしたくなったが、まだ重症患者のいる病室では遠慮、遠慮。食事はいよいよ全粥。退院前日を祝ってくれるようだ。15時より退院指導、食事指導を受ける。18日消化器手術を受けた4人とも元気に退院できる。こんな嬉しいことはない。病室にはBSより大分前に入院したらしいが血圧が極端に低いらしく手術室に入れない患者と、手術後の回復が悪く退院が長引いている患者が隣のベット。

 1月28日(木)夜中、看護師さんが枕元にきて手を握られたので目を覚ました。部屋を変わってくれないかとのこと。今日入院して来た患者の具合が悪く、ナースコールが度々で、ナースセンターに近い部屋が必要とのこと。思えば705号室は条件の良い部屋だった。
退院。喜びを露わに出来ない雰囲気が病室にあることは前に書いた。浮き立つ気持ちを抑えながら、ナースセンターに挨拶して娘の車に乗り込んだ。

エピローグ

 ”癌”罹患者の平均生存率は5年という。今後BSの癌細胞が肺、肝臓、前立腺などへの転移は無いとは医師は保証していない。
人は誰も死は避けられないものと知っている。しかし、自分はまだまだ先の先と認識が浅い。壮年期までは、それで良いが老年期に入っているBSは区切りをつけて、これからは人生の整理期とし余生を静かに眺めたい。
BSは、このたびの癌手術について、現在活動を共にしているスキー仲間、コーラス、ハーモニカ仲間だけに、当分の間お休みする理由は、これこれと伝えた。
旧職場の教職員や卒業生には後日、折があった際に知らせることにした。
退院まで家族そして多くの友人に支えられて、ここまで来られた有難味をしみじみ感じている。感謝、感謝。
ちなみに、県立がんセンターに支払った金額は85,624円。大和徳州会病院に支払った金額は39,600円であった。

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